各地の一向一揆を打ち破り、天下統一を目前としていた信長は、天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀で討たれ、あえない最後を遂げました。信長の跡を争ったのが、羽柴秀吉と柴田勝家の二人でした。翌天正11年、秀吉は滋賀県の賤が岳で柴田軍を破り、勝家は北庄(福井市)に逃れましたが、ついには兵火の中で命を絶ちました。
この戦さにより、秀吉は前田利家に石川、河北の2郡を与え、丹羽長秀を北庄に置き、越前・若狭と江沼・能美の2郡を統治させました。これにより、江沼郡は、長秀の与力、溝口秀勝が、4万4千石の領主として大聖寺城に入り当地を治めることとなりました。秀勝が江沼郡を支配した期間は約15年ほどですが、大聖寺の城下町としての基本的な形は、この時につくられたものと考えられています。その後、丹羽長秀が死去したことで、秀勝は越後の新発田に移されました。この移動により、秀吉の家来で、筑前・筑後(福岡県)の領主、小早川秀秋が北庄に入り、併せて江沼郡も支配することとなり、大聖寺城には秀秋の家来、山口玄蕃頭宗永が入り、江沼郡7万石の支配者として当地を治めました。
慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死去すると、政局は大きく動きました。豊臣家を守ろうとする石田三成を中心とする勢力と、徳川家康を新たなリーダーにしようとする勢力の2つに分かれていったのです。慶長5年(1600)、ついに家康を筆頭とする東軍と、毛利輝元を総大将にたてて参戦した三成を筆頭とする西軍との間に戦さがおこりました。これが関ケ原の戦いです。戦いは西軍の小早川秀秋の裏切りなどもあり、東軍、家康側の勝利となりました。
関ケ原の戦いにより、当地でも東軍と西軍で戦いが起こりました。大聖寺城主山口玄蕃は西軍に、金沢城主前田利長は、家康側の東軍についたため、同年7月、前田利長率いる2万5千人の大軍が大聖寺城に攻め込みました。この戦さで1,200人余りの山口玄蕃軍は、僅か1日で、およそ800人の家臣と共に討ち死にをしました。山口玄蕃の首塚は大聖寺新町の福田橋詰めにあり、現在も、毎年、玄蕃親子が自決した日と伝えられる8月8日には、供養するための法要が開かれています。
加賀藩2代藩主前田利長は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、豊臣方の大聖寺城主山口玄蕃を攻め滅ぼしたことで、徳川家康から、それまでの領地に加え、能美郡8万石、石川郡(松任)4万石、江沼郡7万石が新たに与えられ、その結果、加賀・能登・越中3か国に119万石を領有する加賀藩が成立しました。このあと、元和元年(1615)の一国一城令で、大聖寺城が廃城となるまで、加賀藩は太田長知や小塚権太夫などの城代を派遣しましたが、その後は大聖寺藩が成立するまで郡奉行を置いて江沼郡を統治しました。
加賀藩3代藩主前田利常は、寛永16年(1639)に長男光高(4代)に藩主を譲り、小松に隠居しました。この時、2男利次に富山藩10万石を、3男利治に大聖寺藩7万石を分け、支藩として独立させました。そのため、それまで119万石をもっていた加賀藩は光高の80万石と利常の養老領22万石の、合わせて102万石となりました。寛永16年の大聖寺藩成立により、当地方は明治維新を迎える14代藩主利鬯までの230 年間にわたって前田家により支配されることとなったのです。
大聖寺藩の初代藩主となった前田利治は、大聖寺藩の政治の仕組みを整え、九谷や熊坂に金山を、曽宇に銀山を開発しました。また、木地師の保護や九谷焼の製造など、殖産興業にも力を注ぎ、大聖寺城下町の基礎を築きました。
前田利治は廃城となった大聖寺城に代わり、大聖寺川・熊坂川を堀として、錦城山の麓に、新たに藩邸を建てました。
城下町では、馬場町・八間道付近に上級武士の館、仲町・鷹匠町・耳聞山付近に上中級の武士を、鉄砲町・弓町・金子・木呂場等に下級武士や職人を住まわせる等、身分や職業により居住場所を分けました。また、寛永・正保年間には城下の整備に伴い意図的に浄土真宗以外の禅・浄土・日蓮各宗の寺院を山ノ下に集めました。
商品流通の発展に伴い、周辺の農村部から人口が流入し、藩政期を通じて町域は徐々に拡大しました。城下町には、塩・茶・絹・紙をはじめとする問屋が置かれ、吉田屋や福田屋をはじめとする有力町人が育ち、橋立や瀬越の北前船主とともに、豊かな経済力によって藩財政を支えました。
江沼神社と長流亭
現在の錦城小学校に隣接して江沼神社があります。この神社は明治5年に前田家が祖先としている菅原道真(天神公)と初代藩主前田利治公を祀るために「松島天満宮」として建てたものです。現在の江沼神社と呼ぶようになったのは明治10年からのことです。この神社にはひさご池や中島に八つ橋などが整備された庭園がありますが、藩邸に付設された回遊式の大名庭園としてとても貴重なものとなっています。
また、境内北側、大聖寺川に面して、宝永6年(1709)大聖寺藩3代藩主前田利直の休憩所として建てられた「長流亭」があります。当初は「川端御亭」と呼ばれていました。この建物は杮葺の平屋ですが、欄間や障子、板戸などには斬新なデザインがほどこされ、設計に小堀遠州の建築意匠を採り入れた可能性も指摘されるなど、高い評価を得て、現在、国の重要文化財となっています。
実性院と全昌寺
大聖寺の南はずれ、下屋敷から神明町にかけての一帯は、山ノ下寺院群と称し、禅宗・浄土宗・日蓮宗の各派の寺院が並んでいます。その一つ、実性院は初代大聖寺藩主前田利治以来の歴代藩主の位牌が祀ってあり、大聖寺前田家の菩提寺となっています。寺の後ろの石段を登ったところには、初代から14代までの歴代藩主すべての墓が並んでいます。特に初代藩主利治の墓はひときわ大きく、その横には利治の死と共に殉死した3人の家来の墓も建てられています。
また、この寺は、毎年9月初旬ともなると萩の花でいっぱいとなり、萩の名所としても知られています。
実性院からしばらく歩くと全昌寺があります。元禄2年(1689)、俳人松尾芭蕉が「奥の細道」の行脚の途中、この寺に泊りました。このとき詠んだ句が「庭掃いて 出でばや寺に 散る柳」です。この全昌寺は、大聖寺城主山口玄蕃宗永の菩提寺でもあり、また、517体の全ての仏像が揃った五百羅漢が残されていることでも有名なお寺です。
正徳の百姓一揆
正徳2年(1712)8月、当地方に強風が吹き、作物などに大きな損害がでましたが、藩は年貢米の取り立てを例年どおりとしました。これに不満をもった農民たちが那谷村まで検分にきた役人たちを襲い百姓一揆が起こりました。農民たちはこのあと、串茶屋(現在の小松市串茶屋町)、庄、山代、山中などの問屋や役人宅を襲い、つぎつぎと打ち壊すなど、大聖寺に迫る勢いとなりました。一揆は、ほとんどの村の百姓が強制的に参加させられるなど全藩的な規模のものとなり、結局、大聖寺藩は農民たちの要求をほぼ認めることで解決しました。
もともと、大聖寺藩は実質7万石しかなく、日頃より財政が厳しく、年貢米を厳しく農民に納めさせていました。こうしたことが背景にあり、たびたびこうした一揆がおこりました。
山中温泉・山代温泉の発祥と隆盛
山中・山代の両温泉はともに奈良時代の僧、行基が開湯したとの伝説をもち、すでに中世から湯治場として広く知られていました。山中温泉では文明5年(1473)に蓮如が、山代温泉には永禄8年(1565)に明智光秀が入湯した記録が残っています。
山中温泉は、慶安元年(1648)の火事により、新しく町割りが行われ、総湯(湯ざや)を中心とし湯本12 軒をはじめとする50 軒前後の湯宿が営まれていました。藩主や上級武士をはじめ、元禄2(1689)には松尾芭蕉が9日間逗留し「扶桑三の名湯」と讚えました。その後、北前船主や船頭も訪れるなど、山中温泉は広く知られるようになりました。なお、山中温泉では、湯宿は内湯をもたなかったため、ほとんどの湯治客は総湯を利用しました。
一方、山代温泉は、総湯を中心に18 軒の温泉宿が囲み、湯の曲輪を形成しました。しかし、山中温泉とは異なり、湯宿それぞれが湯壷をもっていたため、湯治客は宿中の「内湯」にも入浴しました。そのため、芸子や舞子等も湯宿に出入りするようになりました。
後藤才次郎と九谷焼
伝承によれば、大聖寺藩初代藩主の前田利治は、領内の九谷村で陶石が発見されたのを契機に、焼き物の生産を考え、九谷鉱山の開発に従事して、錬金の役を務めていた後藤才次郎を肥前有田に陶業技術修得に遣わしたと伝えられています。才次郎は帰藩後、九谷の地で窯を築き、田村権左右衛門を指導して、明暦元年(1655)頃に色絵磁器の生産を始めました。これが九谷焼のはじまりとされています。
その後、この事業は2代藩主利明が引き継がれましたが、およそ50年間で九谷焼の製造は突然廃止されました。この時期につくられた焼き物は「古九谷」と呼ばれ、その大胆なデザインなどは特に高く評価されています。古九谷の色絵技法は、力強い呉須の線描の上に、絵の具を厚く盛り上げる方法です。色調は紫・緑・黄を主調とし、補色として紺青・赤を使用しています。作品は、山水、風物を題材に豪放な味わいを醸し出していますが、一定の画風というものは存在せず、極めて変化に富んでいます。中でも赤を使わず「塗埋手」という手法で描かれた「青手古九谷」は強烈な印象を与えています。
廃窯から約100 年後、大聖寺の豪商、吉田屋伝右衛門が九谷焼を再興しようと「吉田屋窯」を開きました。このあと、宮本窯、松山窯、九谷本窯等多くの優れた九谷焼が作られるようになり、これらの焼き物は「再興九谷」と呼ばれ、当地の焼き物の技術を現在まで伝えていく役割を果たしました。
山中塗りの歴史
山中塗りは、安土桃山時代の天正年間(1573-1592)に、越前から山伝いに、山中温泉の上流約20kmの真砂という集落に木地師の集団が移住したことが起源とする言い伝えがあります。その後、山中塗は山中温泉の湯治客への土産物として造られるとともに、江戸中頃からは会津、京都、金沢から塗りや蒔絵の技術を導入して木地とともに茶道具などの塗り物の産地として発展し、全国的でも有数の漆器の産地となりました。
大聖寺の絹織物
当地方は古くから絹の産地とされています。その発端は荻生村の娘が京都で西陣織を習い、帰ってから村で織物を始めたこととされています。その後、この娘が庄村に嫁いだため、庄村で織物が盛んになり、庄村の餅屋、京屋などが中心となって手広く販売されるようになりました。これが庄絹と呼ばれるものです。また、庄村の沢屋仁左衛門は、江戸中頃、大聖寺にもこの織物技術を広めたと伝えられています。その後、大聖寺絹は貧しい武士の奥方の内職として広まり、「お内儀絹(おかみさまぎぬ)」と呼ばれ、大聖寺は一躍織物の産地として知られるようになりました。
北前船の活躍と3つの拠点
江戸時代の中頃から明治中期頃までの間、大坂を拠点に、瀬戸内を通って日本海を北上し、北海道までを往来した商船を北前船と呼んでいます。その特徴は各地の港で積み込んだ荷物を売り買いし利鞘を稼ぐ「買積船」であったことでした。特に鰊や昆布などの北海道の海産物を大量に大坂まで運び、多額の富を得ました。大聖寺藩の橋立村・塩屋村・瀬越村では、いずれも北前船が接岸できる湊をもっていませんでしたが、18 世紀後半頃から多くの北前船主や船頭を輩出し、「北前船のふる里」として栄えました。
橋立には42名もの北前船主や船頭がいたことが寛政8年(1796)の記録に残っています。こられの船主の中でも、明治以降、当地の発電事業や銀行の開設などで尽力した久保彦兵衛や函館に拠点を移し北洋漁業で成功した西出孫左衛門などがよく知られています。
瀬越は大聖寺川の河口に位置する小さな集落ですが、その歴史はとても古く、蓮如が瀬越の亭家まで碁を打ちに来たとの言い伝えもあります。亭家は前田家が大聖寺藩を治めることになった時期には船裁許も務めていました。この瀬越からは、大聖寺藩政以前から、敦賀までの米の輸送をおこない、現代までおよそ400年もの間、海運業一筋の家業を築いた廣海二三郎と早くから和船を汽船に切り換え、海外航路を切り開いたことで知られる大家七平の2大船主がでました。
塩屋(堀切港)は大聖寺町の外港として、大坂への廻米をはじめ、諸物資の出入りはほとんどこの港に限られ、船番所・澗奉行等もおかれていました。この塩屋では、特に、西野小左衛門、西野小右衛門などが活躍しました。
大聖寺藩は、幕末に至り財政上の危機・国防上の必要に際して、北前船主らから多額の献金を得ました。藩ではそれらの船主に対し、士分に取り立てるなど、禄高で身分上の優遇を図りました。
船主や船頭は、常に危険に晒される船乗りたちの航海安全を祈願し、村の神社に船絵馬を奉納しました。橋立や瀬越、塩屋の神社の拝殿には、そうした船絵馬が多数掲げられています。
大聖寺藩のその他の産業(和紙・製塩・製炭)
中田・長谷田・上原・塚谷は通称「紙屋谷」といわれ、藩の庇護のもと領内で用いられる紙の生産が成されました。篠原新町、伊切町は、近世に開かれた出村で、漁業とともに製塩が営まれ、浜佐美(現小松市)とともに大聖寺藩の製塩地に位置付けらていました。また、山中の菅谷や栢野などの集落を含む西谷地区や、荒谷や今立などの集落を含む東谷地区では製炭が盛んに行われ、藩庁や藩士が消費する炭の確保が図られました。
芭蕉と北陸行脚
元禄2年の7月27日(新暦9月10日)から8月5日まで、俳聖、松尾芭蕉は「奥の細道」の旅の途中、山中温泉の出湯、泉屋に逗留しました。この間、芭蕉は薬師堂を詣で、温泉につかり、風光明媚な景色を心から楽しみ、山中を「扶桑三の名湯」と讚えました。そして「山中や 菊は手折らじ 湯の匂ひ」の一句を詠みました。この句は「山中の湯に浴せば、中国の菊滋童が集めた不老長寿の菊の露を飲むまでもない」という意味です。なお、菊滋童とは菊の花から滴る露を飲み、700歳あまりまで生きたといわれる少年のことです。
菊の湯と道を隔てて芭蕉の宿泊した泉屋がありました。芭蕉はこの泉屋で八日間を過ごしました。この泉屋の当主はまだ十四歳の少年久米之助で、芭蕉は弟子入りしたこの少年に自らの「桃青」の一字をとって「桃妖(とうよう)」の号を与えました。桃妖は芭蕉の期待に応え、後に北枝とともに加賀俳壇の発展に寄与しました。
大聖寺藩と学問
大聖寺藩では、藩士子弟の文武にわたる教育に力が注がれ、学問や芸術が武士の嗜みとしての文化が醸成されました。こうした精神は、明治期以降も受け継がれ、多くの人材を世に送り続けました。幕府や加賀藩の朱子学への傾倒の影響を受け、大聖寺藩においても、江戸で『九経談』を出版した大田錦城をはじめとする儒学者や漢学、算学、蘭学等で優れた人材を輩出しました。天保11 年(1840)に「時習館」と称する学問所、安政4年(1857)には武道を学ぶための有備館が設けられました。東方芝山は、漢学や洋学、兵学などのあらゆる学問に優れ、藩校の充実や藩士の留学に力を注ぐなど、幕末の藩政に大きな影響を与えました。なお、大聖寺藩及びその領内を記録・研究した貴重な書籍も編纂されました。特に『茇憩紀聞』『藩国見聞録』『加賀江沼志稿』等は、現在でも、当地の歴史、文化、地理などを研究する際の重要な文献史料となっています。
大聖寺城下町の文化と茶の湯
茶の湯は藩主から藩士・町人に嗜まれ、道具を育て、作法を定着させました。城下町には多くの茶室や菓子店、茶問屋や道具商が集中していました。
茶道とともに、漢詩、歌道、俳諧、能楽、花道、書道、絵画などが発展しました。茶の湯の文化は、優れた茶器としての九谷焼を発達させるとともに、その道具へのこだわりは、山中塗の技術を高める背景にもなりました。
山中節の発祥
山中温泉で歌い継がれる民謡「山中節」は、疲れた体を癒す北前船の船乗り衆が、北海道で覚えてきた「江差追分」や「松前追分」を、ユカタベーと称する湯女との掛け合いで歌ったのが始まりとされています。哀愁をおびた音色は昭和の大スター・石原裕次郎や森光子も熱心なファンだったといい、多くの国民を虜にしています。