近世編

(『加賀市歴史文化学習帳』より)

 

 
  テキスト ボックス: 江戸時代

 

各地の一向(いっこう)一揆(いっき)()(やぶ)り、天下(てんか)統一(とういつ)目前(もくぜん)としていた信長(のぶなが)は、(てん)(しょう)10年(1582本能寺(ほんのうじ)(へん)明智(あけち)光秀(みつひで)()たれ、あえない最後を()げました。信長の(あと)(あらそ)ったのが、羽柴(はしば)(ひで)(よし)柴田(しばた)勝家(かついえ)の二人でした。翌天正11年、秀吉は滋賀(しが)県の(しず)(だけ)で柴田軍を破り、勝家は北庄(きたのしょう)(福井市)に(のが)れましたが、ついには兵火(へいか)の中で命を()ちました。

 

この戦さにより、秀吉は前田利家(としいえ)に石川、河北(かほく)の2郡を(あた)え、丹羽(にわ)長秀(ながひで)を北庄に置き、越前(えちぜん)若狭(わかさ)と江沼・能美の2郡を統治(とうち)させました。これにより、江沼郡は、長秀の与力(よりき)溝口(みぞぐち)(ひで)(かつ)が、4万4千石の領主(りょうしゅ)として大聖寺(だいしょうじ)(じょう)に入り当地を(おさ)めることとなりました。秀勝が江沼郡を支配(しはい)した期間(きかん)は約15年ほどですが、大聖寺の城下町としての基本的(きほんてき)な形は、この時につくられたものと考えられています。その後、丹羽長秀が死去(しきょ)したことで、秀勝は越後の新発田(しばた)(うつ)されました。この移動(いどう)により、秀吉の家来(けらい)で、筑前(ちくぜん)筑後(ちくご)(福岡県)の領主、小早川(こばやかわ)(ひで)(あき)が北庄に入り、(あわ)せて江沼郡も支配することとなり、大聖寺城には秀秋の家来、山口玄蕃頭宗(やまぐちげんばかみむね)(なが)が入り、江沼郡7万石の支配者(しはいしゃ)として当地を治めました。

 

慶長(けいちょう)3年(1598)、豊臣(とよとみ)(ひで)(よし)が死去すると、政局(せいきょく)は大きく動きました。豊臣家を守ろうとする石田三(いしだみつ)(なり)を中心とする勢力(せいりょく)と、徳川(とくがわ)家康(いえやす)を新たなリーダーにしようとする勢力の2つに分かれていったのです。慶長5年(1600)、ついに家康を筆頭(ひっとう)とする東軍(とうぐん)と、毛利(もうり)輝元(てるもと)総大将(そうだいしょう)にたてて参戦(さんせん)した三成を筆頭(ひっとう)とする西軍(せいぐん)との間に(いく)さがおこりました。これが関ケ原(せきがはら)の戦いです。戦いは西軍の小早川秀秋の裏切(うらぎ)りなどもあり、東軍、家康側の勝利(しょうり)となりました。

 

 

 

関ケ原の戦いにより、当地でも東軍と西軍で戦いが起こりました。大聖寺城主山口玄蕃は西軍に、金沢城主(まえ)()(とし)(なが)は、家康側の東軍についたため、同年7月、前田利長(ひき)いる2万5千人の大軍が大聖寺城に()め込みました。この戦さで1,200人余りの山口玄蕃軍は、(わず)1日で、およそ800人の家臣と共に()()にをしました。山口玄蕃の(くび)(づか)は大聖寺新町(しんちょう)の福田橋()めにあり、現在も、毎年、玄蕃(げんば)親子(おやこ)自決(じけつ)した日と伝えられる8月8日には、供養(くよう)するための法要(ほうよう)が開かれています。

 

加賀藩2代藩主前田利長は、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、豊臣(とよとみ)方の大聖寺城主山口玄蕃を()(ほろ)ぼしたことで、徳川家康から、それまでの領地(りょうち)に加え、能美郡(のみぐん)8万石、石川郡(松任)4万石、江沼郡7万石が新たに与えられ、その結果、加賀・能登・越中3か国に119万石を領有(りょうゆう)する加賀藩(かがはん)が成立しました。このあと、元和元年(1615)の一国一城令で、大聖寺城が廃城となるまで、加賀藩は太田(おおた)長知(ながとも)小塚権(こづかごん)太夫(だゆう)などの城代(じょうだい)派遣(はけん)しましたが、その後は大聖寺藩が成立するまで(こおり)奉行(ぶぎょう)()いて江沼郡を統治(とうち)しました。

 

加賀藩3代藩主前田(とし)(つね)は、寛永(かんえい)16年(1639)に長男(みつ)(たか)4代)に藩主(はんしゅ)(ゆず)り、小松に隠居(いんきょ)しました。この時、2男(とし)(つぐ)に富山藩10万石を、3男(とし)(はる)に大聖寺藩7万石を分け、支藩(しはん)として独立(どくりつ)させました。そのため、それまで119万石をもっていた加賀藩は光高の80万石と利常の養老領(ようろうりょう)22万石の、合わせて102万石となりました。寛永(かんえい)16年の大聖寺藩成立により、当地方は明治(めいじ)維新(いしん)(むか)える14代藩主利鬯(としか)までの230 年間にわたって前田家(まえだけ)により支配(しはい)されることとなったのです。

 

 

 

大聖寺藩(だいしょうじはん)の初代藩主(はんしゅ)となった前田(まえだ)(とし)(はる)は、大聖寺藩の政治(せいじ)の仕組みを(ととの)え、()(たに)熊坂(くまさか)金山(きんざん)を、曽宇(そう)銀山(ぎんざん)開発(かいはつ)しました。また、木地師(きじし)保護(ほご)九谷焼(くたにやき)製造(せいぞう)など、殖産(しょくさん)興業(こうぎょう)にも力を(そそ)ぎ、大聖寺城下町の基礎(きそ)(きず)きました。

 

前田利治は(はい)(じょう)となった大聖寺城に代わり、大聖寺川・(くま)(さか)川を(ほり)として、錦城山の(ふもと)に、新たに藩邸(はんてい)を建てました。

 

城下町では、馬場(ばば)町・(はち)間道(けんみち)付近(ふきん)上級(じょうきゅう)武士(ぶし)(やかた)仲町(なかちょう)鷹匠(たかじょう)(まち)耳聞山(みみきやま)付近に上中級の武士(ぶし)鉄砲(てっぽう)(まち)(ゆみ)(ちょう)・金子・木呂場等に下級武士や職人(しょくにん)()まわせる等、身分や職業により居住場所()けました。また、寛永(かんえい)正保(しょうほう)年間には城下の整備(せいび)に伴い意図的(いとてき)浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)以外の(ぜん)浄土(じょうど)日蓮(にちれん)各宗の寺院を山ノ下に(あつ)めました。

 

商品(しょうひん)流通(りゅうつう)発展(はってん)(ともな)い、周辺(しゅうへん)農村部(のうそんぶ)から人口(じんこう)流入(りゅうにゅう)し、藩政期(はんせいき)(つう)じて町域(ちょういき)徐々(じょじょ)拡大(かくだい)しました。(じょう)下町(かまち)には、(しお)(ちゃ)(きぬ)(かみ)をはじめとする問屋(とんや)()かれ、(よし)田屋(だや)(ふく)田屋(だや)はじめとする有力(ゆうりょく)町人(ちょうにん)(そだ)ち、橋立(はしたて)瀬越(せごえ)北前(きたまえ)船主(せんしゅ)とともに、(ゆた)かな経済力(けいざいりょく)によって(はん)財政(ざいせい)(ささ)えました

 

 

 

江沼神社と長流亭

 

 現在(げんざい)(きん)(じょう)小学校に隣接(りんせつ)して江沼(えぬま)神社(じんじゃ)があります。この神社(じんじゃ)明治(めいじ)5年に前田家(まえだけ)祖先(そせん)としている菅原道真(すがわらみちざね)天神(てんじん)(こう))と初代藩主(まえ)()(とし)(はる)(こう)(まつ)るために「松島(まつしま)天満宮(てんまんぐう)」として()てたものです。現在の江沼神社と()ぶようになったのは明治10年からのことです。この神社にはひさご池や中島(なかじま)()(はし)などが整備(せいび)された庭園(ていえん)がありますが、藩邸(はんてい)付設(ふせつ)された回遊式(かいゆうしき)大名(だいみょう)庭園(ていえん)としてとても貴重(きちょう)なものとなっています。

 

 また、境内(けいだい)北側、大聖寺川に(めん)して、宝永6年(1709)大聖寺藩3代藩主(はんしゅ)前田(とし)(なお)休憩所(きゅうけいじょ)として()てられた「長流亭(ちょうりゅうてい)」があります。当初は「川端(かわばた)御亭(おちん)」と()ばれていました。この建物は杮葺(こけらぶき)平屋(ひらや)ですが、欄間(らんま)障子(しょうじ)板戸(いたど)などには斬新(ざんしん)なデザインがほどこされ、設計に小堀(こぼり)遠州(えんしゅう)の建築意匠を採り入れた可能性も指摘(してき)されるなど、高い評価を()て、現在、国の重要文化財となっています。

 

 

 

実性院と全昌寺

 

大聖寺の南はずれ、下屋敷(したやしき)から神明(しんめい)(ちょう)にかけての一帯(いったい)は、(やま)ノ下(のした)寺院群(じいんぐん)(しょう)し、禅宗(ぜんしゅう)浄土宗(じょうどしゅう)日蓮宗(にちれんしゅう)の各派の寺院(じいん)(なら)んでいます。その一つ、実性院(じつしょういん)は初代大聖寺藩主(まえ)()(とし)(はる)以来の歴代(れきだい)藩主(はんしゅ)位牌(いはい)(まつ)ってあり、大聖寺前田家の菩提寺(ぼだいじ)となっています。寺の(うし)ろの石段(いしだん)(のぼ)ったところには、初代から14代までの歴代(れきだい)藩主すべての(はか)(なら)んでいます。特に初代藩主(とし)(はる)の墓はひときわ大きく、その横には利治の死と共に殉死(じゅんし)した3人の家来の墓も()てられています。

 

また、この寺は、毎年9初旬(しょじゅん)ともなると(はぎ)の花でいっぱいとなり、萩の名所(めいしょ)としても知られています。

 

 実性院からしばらく歩くと全昌寺(ぜんしょうじ)があります。元禄(げんろく)2年(1689)、俳人(はいじん)松尾(まつお)芭蕉(ばしょう)が「(おく)細道(ほそみち)」の行脚(あんぎゃ)途中(とちゅう)、この寺に(とま)りました。このとき()んだ句が「(にわ)()いて (いで)でばや寺に ()(やなぎ)」です。この全昌寺は、大聖寺城主山口玄蕃宗(げんばむね)(なが)菩提寺(ぼだいじ)でもあり、また、517体の全ての仏像(ぶつぞう)(そろ)った五百(ごひゃく)羅漢(らかん)が残されていることでも有名(ゆうめい)なお寺です。

 

 

 

正徳の百姓一揆

 

正徳(しょうとく)2年(17128月、当地方に強風(きょうふう)()き、作物(さくもつ)などに大きな損害(そんがい)がでましたが、藩は年貢(ねんぐ)(まい)()()てを例年(れいねん)どおりとしました。これに(ふまん)をもった農民(のうみん)たちが()谷村(たむら)まで検分(けんぶん)にきた役人たちを(おそ)百姓(ひゃくしょう)一揆(いっき)()こりました。農民たちはこのあと、(くし)茶屋(ちゃや)(現在の小松市串茶屋町)、庄、山代、山中などの問屋(とんや)や役人宅を(おそ)い、つぎつぎと打ち(こわ)すなど、大聖寺に(せま)(いきお)いとなりました。一揆は、ほとんどの村の百姓が強制的(きょうせいてき)参加(さんか)させられるなど全藩的(ぜんぱんてき)規模(きぼ)のものとなり、結局、大聖寺藩は農民たちの要求をほぼ(みと)めることで解決(かいけつ)しました。

 

もともと、大聖寺藩は実質(じっしつ)7万石しかなく、日頃より財政(ざいせい)(きび)しく、年貢(ねんぐ)(まい)を厳しく農民に(おさ)めさせていました。こうしたことが背景(はいけい)にあり、たびたびこうした一揆がおこりました。

 

 

 

山中温泉・山代温泉の発祥(はっしょう)隆盛(りゅうせい)

 

山中・山代の両温泉はともに奈良時代の僧、行基(ぎょうき)(かい)(とう)したとの伝説(でんせつ)をもち、すでに中世から湯治場(とうじば)として広く知られていました。山中泉では文明5年(1473)に蓮如(れんにょ)が、山代泉には(えい)(ろく)8年(1565)に明智光(あけちみつ)(ひで)が入湯した記(のこ)っています。

 

山中泉は慶安(けいあん)元年(1648)の火事(かじ)により、新しく(まち)()りが行われ、総湯(そうゆ)(湯ざや)を中心とし湯本(ゆもと)12 軒をはじめとする50 (けん)前後(ぜんご)()宿(やど)(いとな)まれていました。藩主や上級武士をはじめ、元2(1689)には松尾(まつお)芭蕉(ばしょう)が9日間逗留(とうりゅう)し「扶桑(ふそう)三の名湯(めいとう)」と(たた)えました。その後、前船主や船頭(せんどう)も訪れるなど、山中温泉は広く知られるようになりました。なお、山中泉では、湯宿は内湯(うちゆ)をもたなかったため、ほとんどの湯治客(とうじきゃく)総湯(そうゆ)を利用しました。

 

一方、山代泉は、湯を中心に18 軒の温泉(おんせん)宿(やど)(かこ)み、湯の()()形成(けいせい)しました。しかし、山中泉とは(こと)なり、湯宿それぞれが()(つぼ)をもっていたため、湯治客(とうじきゃく)は宿中の「内湯(うちゆ)」にも入浴(にゅうよく)しました。そのため、芸子(げいこ)舞子(まいこ)(など)も湯宿に出入りするようになりました。

 

 

 

後藤(ごとう)(さい)次郎(じろう)と九谷焼

 

伝承によれば、大聖寺藩初代藩主の前田(まえだ)(とし)(はる)は、領内(りょうない)()谷村(たにむら)(とう)(せき)発見(はっけん)されたのを契機(けいき)に、焼き物(やきもの)の生産を考え、()(たに)鉱山(こうざん)開発(かいはつ)従事(じゅうじ)して、(れん)(きん)(やく)(つと)めていた後藤(ごとう)(さい)次郎(じろう)肥前(ひぜん)有田(ありた)陶業(とうぎょう)技術修得(しゅうとく)(つか)わしたと伝えられています。才次郎は帰藩(きはん)後、九谷の地で(かま)(きず)き、田村(ごん)左右()衛門(えもん)指導(しどう)して、明暦(めいれき)元年(1655)頃に色絵(いろえ)磁器(じき)の生産を始めました。これが九谷焼のはじまりとされています。
 その後、この事業は2代藩主(とし)(あき)が引き()がれましたが、およそ50年間で九谷焼の製造は突然(とつぜん)廃止(はいし)されました。この時期(じき)につくられた焼き物は「古九(こく)(たに)」と呼ばれ、その大胆(だいたん)なデザインなどは特に高く評価されています。古九谷の色絵技法(ぎほう)は、力強い呉須(ごす)線描(せんびょう)の上に、絵の()(あつ)()り上げる方法です。色調(しきちょう)(むらさき)(みどり)()主調(しゅちょう)とし、補色(ほしょく)として紺青(こんじょう)・赤を使用しています。作品は、山水(さんすい)風物(ふうぶつ)題材(だいざい)豪放(ごうほう)な味わいを(かも)し出していますが、一定の画風(がふう)というものは存在せず、(きわ)めて変化に()んでいます。中でも赤を使わず「塗埋手(ぬりうめて)」という手法で描かれた「青手古九谷」は強烈(きょうれつ)な印象を与えています。

 

(はい)(よう)から約100 年後、大聖寺の豪商(ごうしょう)、吉田屋(でん)()衛門(えもん)九谷焼を再興しようと「(よし)田屋(だや)(がま)」を開きました。このあと、宮本窯、松山窯、九谷(ほん)(がま)等多くの優れた九谷焼が作られるようになり、これらの焼き物は「再興九谷」と呼ばれ、当地の焼き物の技術を現在まで伝えていく役割を()たしました。

 

 

 

山中(やまなか)()りの歴史

 

山中塗りは、安土(あづち)桃山(ももやま)時代(じだい)の天正年間(1573-1592)に、越前から山(づた)いに、山中温泉の上流約20km真砂(まなご)という集落に木地師(きじし)の集団が移住(いじゅう)したことが起源(きげん)とする言い伝えがあります。その後、山中(やまなか)(ぬり)は山中温泉の湯治客(とうじきゃく)への土産物(みやげもの)として(つく)られるとともに、江戸中頃からは会津(あいづ)京都(きょうと)金沢(かなざわ)から()りや蒔絵(まきえ)技術(ぎじゅつ)導入(どうにゅう)して木地(きじ)とともに茶道具(ちゃどうぐ)などの塗り物の産地として発展(はってん)し、全国的でも有数の漆器(しっき)の産地となりました。

 


大聖寺の絹織物

 

当地方は古くから(きぬ)の産地とされています。その発端(ほったん)()(ぎゅう)村の娘が京都で西陣織(にしじんおり)を習い、帰ってから村で織物を始めたこととされています。その後、この娘が庄村に(とつ)いだため、庄村で織物が盛んになり、庄村の餅屋(もちや)京屋(きょうや)などが中心となって手広(てびろ)販売(はんばい)されるようになりました。これが(しょう)(ぎぬ)と呼ばれるものです。また、庄村の沢屋(さわや)()()衛門(えもん)は、江戸中頃、大聖寺にもこの織物(おりもの)技術(ぎじゅつ)を広めたと伝えられています。その後、大聖寺絹は(まず)しい武士(ぶし)奥方(おくがた)(ないしょく)として広まり、「お内儀絹(おかみさまぎぬ)」と呼ばれ、大聖寺は一躍(いちやく)織物(おりもの)の産地として知られるようになりました。

 

 

 

北前(きたまえ)(ぶね)の活躍と3つの拠点

 

江戸時代の中頃から明治中期頃までの間、大坂を拠点(きょてん)に、瀬戸内(せとうち)(とお)って日本海を北上(ほくじょう)し、北海道(ほっかいどう)までを往来(おうらい)した商船(しょうせん)北前(きたまえ)(ぶね)と呼んでいます。その特徴(とくちょう)は各地の港で()み込んだ荷物(にもつ)を売り買いし利鞘(りざや)(かせ)ぐ「買積(かいずみ)(せん)」であったことでした。特に(にしん)昆布(こんぶ)などの北海道の海産物(かいさんぶつ)大量(たいりょう)大坂(おおさか)まで(はこ)び、多額(たがく)(とみ)()ました。大聖寺藩の橋立(はしたて)(むら)塩屋(しおや)(むら)瀬越村(せごえむら)では、いずれも北前船が接岸できる湊をもっていませんでしたが、18 世紀後半頃から多くの北前船主や船頭を輩出(はいしゅつ)し、「北前船のふる里として(さか)えました。

 

橋立には42名もの北前船主や船頭がいたことが寛政(かんせい)8年(1796)の記録(きろく)(のこ)っています。こられの船主の中でも、明治以降、当地の発電(はつでん)事業(じぎょう)銀行(ぎんこう)開設(かいせつ)などで尽力(じんりょく)久保彦(くぼひこ)兵衛(べい)函館(はこだて)(きょてん)を移し北洋漁業で成功した西出(にしで)(まご)()衛門(えもん)などよく知られています。 

 

瀬越(せごえ)は大聖寺川の河口に位置する小さな集落ですが、その史はとても古く、蓮如が瀬越の亭家まで碁を打ちに来たとの言い伝えもあります。亭家は前田家が大聖寺藩を治めることになった時期には船裁許も務めていました。この瀬越からは、大聖寺藩政以前から、敦賀(つるが)までの米の輸送(ゆそう)をおこない、現代までおよそ400年もの間、海運業一筋の家業を築いた廣海二(ひろうみに)三郎(さぶろう)と早くから和船を汽船に切り換え、海外航路を切り開いたことで知られる大家七(おおいえしち)(べい)の2大船主がでました。

 

屋(堀切港)は大聖寺町の外港(がいこう)として、への(かい)(まい)をはじめ、諸物資(しょぶっし)出入(でい)りはほとんどこの港に(かぎ)られ、(ふな)番所(ばんしょ)()奉行(ぶぎょう)等もおかれていました。この塩屋では、特に、西野小左(こざ)衛門(えもん)、西野小右(こう)衛門(えもん)などが活躍(かつやく)しました。

 

大聖寺藩は、幕末に(いた)り財政上の危機(きき)国防(こくぼう)上の必要に(さい)して、北前船主らから多額(たがく)献金(けんきん)()ました。藩ではそれらの船主にし、士分(しぶん)()り立てるなど、禄高(ろくだか)で身分上の優遇(ゆうぐう)りました

 

船主や船頭は、常に危険(きけん)(さら)される船たちの航海安全を祈願し、村の神社に(ふな)絵馬(えま)奉納(ほうのう)しました。橋立や瀬越、塩屋の神社の拝殿には、そうした船絵馬が多数掲げられています。

 

 

 

大聖寺藩のその他の業(和紙・製塩・製炭)

 

中田(なかた)長谷田(はせだ)上原(うわばら)塚谷(つかたに)通称(つうしょう)「紙屋谷」といわれ、藩の庇護(ひご)のもと領内(りょうない)(もち)いられる紙の生()されました。篠原(しのはら)新町(しんまち)()(きり)町は、近世に開かれた出村(でむら)で、漁業とともに製塩(せいえん)まれ、(はま)()()(現小松市)とともに大聖寺藩の製塩地(せいえんち)位置付(いちづ)けらていました。また、山中の菅谷や(かや)()などの集落を含む西谷地区や、荒谷や今立などの集落を含む東谷地区では製炭(せいたん)(さか)んに行われ、(はん)(ちょう)藩士(はんし)消費(しょうひ)する(すみ)確保(かくほ)(はか)られました

 

 

 

芭蕉と北陸行脚(あんぎゃ)

 

元禄(げんろく)2年の727日(新暦(しんれき)910日)から85日まで、(はい)(せい)松尾(まつお)芭蕉(ばしょう)は「(おく)細道(ほそみち)」の旅の途中、山中温泉の出湯(いでゆ)泉屋(いずみや)逗留(とうりゅう)しました。この間、芭蕉は薬師堂(やくしどう)(もう)で、温泉につかり、風光(ふうこう)明媚(めいび)景色(けしき)を心から楽しみ、山中を「扶桑(ふそう)三の名湯(めいとう)」と(たた)えました。そして「山中や 菊は()()らじ 湯の(にお)ひ」の一句を()みました。この句は「山中の湯に(よく)せば、中国の(きく)()(どう)が集めた不老(ふろう)長寿(ちょうじゅ)の菊の(つゆ)()むまでもない」という意味です。なお、菊滋童とは菊の花から(したた)(つゆ)を飲み、700(さい)あまりまで生きたといわれる少年のことです。

 

菊の湯と道を(へだ)てて芭蕉の宿泊(しゅくはく)した泉屋がありました。芭蕉はこの泉屋で八日間を過ごしました。この泉屋の当主はまだ十四歳の少年久米之(くめの)(すけ)で、芭蕉は弟子(でし)入りしたこの少年に自らの「(とう)(せい)」の一字(いちじ)をとって「桃妖(とうよう)」の(ごう)(あた)えました。桃妖は芭蕉の期待(きたい)(こた)え、(のち)北枝(ほくし)とともに加賀俳壇(はいだん)発展(はってん)()()しました。

 

 

 

大聖寺藩と学問

 

大聖寺藩では、藩士(はんし)子弟(してい)文武(ぶんぶ)にわたる教育に力が(そそ)がれ、学問(がくもん)芸術(げいじゅつ)武士(ぶし)(たしな)みとしての文化が醸成(じょうせい)されました。こうした精神は、明治期以降も受()がれ、多くの人材を世に送りけました。幕府や加賀藩の朱子への傾倒(けいとう)影響(えいきょう)を受け、大聖寺藩においても、江戸で『(きゅう)(けいだん)』を出版(しゅっぱん)した大田(おおた)(きん)(じょう)をはじめとする儒学者(じゅがくしゃ)漢学(かんがく)算学(さんがく)蘭学(らんがく)等で(すぐ)れた人材(じんざい)輩出(はいしゅつ)しました。天保(てんぽう)11 年(1840)に「時習館(じしゅうかん)」と称する学問所(がくもんじょ)安政(あんせい)4年(1857)には武道(ぶどう)を学ぶための有備館(ゆうびかん)(もう)けられました。東方(ひがしかた)芝山(しざん)は、漢学や洋学、兵学などのあらゆる学問に(すぐ)れ、藩校の充実(じゅうじつ)や藩士の留学(りゅうがく)に力を注ぐなど、幕末の藩政に大きな影響を与えました。なお、大聖寺藩及びその領を記・研究した貴重(きちょう)書籍(しょせき)編纂(へんさん)されました。特に『(ばっ)(けい)紀聞(きぶん)』『(はん)(こく)見聞録(けんぶんろく)』『加賀江沼志稿(えぬましこう)』等は、現在でも、当地の歴史、文化、地理などを研究する際の重要な文献(ぶんけん)史料(しりょう)となっています。

 

 

 

大聖寺城下町の文化と茶の湯

 

茶の()は藩主から藩士・町人に(たしな)まれ、道具を育て、作法(さほう)定着(ていちゃく)させました。城下町には多くの茶室や菓子店(かしてん)(ちゃ)問屋(どんや)道具商(どうぐしょう)が集中していました。

 

茶道(さどう)とともに、漢詩(かんし)歌道(かどう)俳諧(はいかい)能楽(のうがく)花道(かどう)書道(しょどう)絵画(かいが)など展しました。茶の湯の文化は、(すぐ)れた茶器(ちゃき)としての九谷焼(くたにやき)発達(はったつ)せるとともに、その道具へのこだわりは、山中(やまなか)(ぬり)の技術を高める背景(はいけい)にもなりました。

 

 

 

山中節の発祥

 

山中温泉で歌い()がれる民謡(みんよう)「山中節」は、(つか)れた体を(いや)す北前船の船乗り衆が、北海道で(おぼ)えてきた江差(えさし)追分(おいわけ)」や「松前(まつまえ)追分(おいわけ)を、ユカタベーと(しょう)する湯女(ゆな)との()()いで歌ったのが始まりとされています。哀愁(あいしゅう)をおびた音色(ねいろ)昭和の大スター・石原(いしはら)裕次郎(ゆうじろう)(もり)光子(みつこ)も熱心なファンだったといい、多くの国民を(とりこ)にしています。