中世編

(『加賀市歴史文化学習帳』より)

  

テキスト ボックス: 鎌倉・室町・戦国時代 

 

 平安時代、都では、藤原(ふじわら)()をはじめとした貴族(きぞく)朝廷(ちょうてい)の重要な役職(やくしょく)をひとりじめにして、絶大(ぜつだい)権力(けんりょく)をもっていましたが、やがて、地方の荘園を管理(かんり)する郡司(ぐんじ)豪族(ごうぞく)たちは、自分たちの土地を守るために武装(ぶそう)し、武士団(ぶしだん)としての力をもつようになりました。その代表が清和(せいわ)天皇(てんのう)子孫(しそん)にあたる源氏(げんじ)と、(かん)()天皇(てんのう)の子孫にあたるは平氏(へいし)の2大勢力(せいりょく)でした。

 

 特に、平安時代末期になると、平清盛(たいらのきよもり)は、藤原(ふじわら)氏にかわって朝廷を動かすほどの力をもち、ついには「平氏でなければ人でなし」と()われるほどになりました。しかし、平氏の目にあまる横暴(おうぼう)、ほかの貴族や武士たちの反感(はんかん)()い、各地にひそんでいた源頼朝(みなもとのよりとも)やその弟、源義経(みなもとのよしつね)従弟(いとこ)木曽(きそ)(よし)(なか)らを中心とした源氏が挙兵(きょへい)しました。

 

寿(じゅ)(えい)2年(1183平家軍(へいけぐん)は、()()伽羅(から)で木曽義仲に大敗(たいはい)し、加賀国篠原(しのはら)(現在の加賀市篠原町あたり)まで(のが)れてきました。この地で、平家の武将、斉藤(さいとう)(さね)(もり)は、(よし)(なか)家来(けらい)手塚(てづか)太郎光(たろうみつ)(もり)討ち取(う と)られました。(いく)さのあと、義仲が、老武者(おいむしゃ)(かみ)が黒々としているのを不思議(ふしぎ)に思い、近くの池でその首を洗わせたところ、白髪(しらが)まじりの実盛の姿があらわれてきました。義仲にとって、実盛は、幼いときに平氏から命を(すく)ってくれた恩人(おんじん)だったのです。実盛は老武者と思われることを(きら)い、白髪を黒く()めて参戦(さんせん)していたのでした。

 

この実盛の(くび)(あら)ったと(つた)える池が「首洗(くびあらい)(いけ)」(加賀市手塚(てづか)(まち))で、その霊を鎮めるために築いた塚と伝えられるところが「(さね)(もり)(づか)」(加賀市篠原新町)なのです。また、実盛が白髪を()めるときに使用した(かがみ)を投げ入れたと伝えている池が深田町(ふかたまち)の「(かがみ)(いけ)」です。

 

 

 

源頼朝(みなもとのよりとも)によって鎌倉(かまくら)幕府(ばくふ)が成立し、その将軍の家臣(かしん)御家人(ごけにん)といいます。御家人はほとんどが関東(かんとう)の武士でした。この鎌倉の武家政権は、支配下の地域に守護(しゅご)地頭(じとう)設置(せっち)し、これに御家人を任命(にんめい)してその地域の武士と土地を管理(かんり)させ、勢力圏(せいりょくけん)維持(いじ)拡大(かくだい)に努めました。特に承久(じょうきゅう)3年(1221)5月に()()()上皇(じょうこう)の幕府打倒(だとう)(くわだ)てが失敗に終わった承久の(へん)の後、幕府が没収(ぼっしゅう)した(ちょう)廷方(ていがた)の土地にも新補(しんぽ)地頭が置かれると、各地で多くの御家人が地頭となり、任じられた土地に土着(どちゃく)して地頭の(しき)世襲(せしゅう)するようになりました。

 

こうして江沼郡に入った外来の地頭の一人、熊坂庄(くまさかのしょう)の地頭職を領有した大見(おおみ)(さね)(やす)は、文永(ぶんえい)10年(1273)、この庄の当時の領家(りょうけ)であった公家(くげ)(とく)大寺家(だいじけ)の現地管理者(預所(あずかりどころ)(あらそ)い、とうとう領家と地頭とで土地を(せっ)(ぱん)するという条件で示談(じだん)とし、半分を自分の領地としてしまいました。これを「和与中(わよちゅう)(ぶん)」といいます。この大見氏も伊豆(いずの)(こく)出身(しゅっしん)の御家人でした。このように、御家人たちの行動は、荘園を領有する公家や寺社の権利を侵害(しんがい)するばかりでなく、在来の小領主であった武士たちが持つ既得権(きとくけん)をも(おびや)かし、その結果として、江沼郡の土豪から平安末以来の武士は姿を消し、鎌倉から南北朝にかけては、代わって(とう)(ごく)御家人の外来(がいらい)地頭とその一族が()めるようになりまた。

 

そのような東国御家人の外来地頭の典型(てんけい)狩野(かのう)()です。狩野氏は伊豆国を(ほん)(きょ)とする狩野氏の一族と思われますが、13世紀中期以降、福田庄(ふくだのしょう)地頭として(とう)(じょう)し、やがて庄内の菅生社(すごうしゃ)(りょう)有権(ゆうけん)をも入手(にゅうしゅ)するようになり、江沼郡で最も有力な国人(こくじん)にまで成長(せいちょう)しました。

 

南北朝(なんぼくちょう)動乱(どうらん)が始まる元弘(げんこう)3年(1333)6月、福田庄菅浪(すがなみ)(ごう)総領(そうりょう)地頭・菅生社神主の狩野頼(かのうより)(ひろ)が能美郡の国人らと(とも)に、倒幕(とうばく)運動(うんどう)展開中(てんかいちゅう)足利(あしかが)高氏(たかうじ)(尊氏)に参陣(さんじん)して新政府に(ぞく)する態度(たいど)明確(めいかく)にしました。しかし、新政府は全国の領主や民衆の期待に(こた)える政権でなかったため、各地で建武(けんむ)政権(せいけん)に対する反乱(はんらん)がおこり、その最大の反乱が、建武2年(1335)7月、北条(ほうじょう)高時(たかとき)の子の(とき)(ゆき)擁立(ようりつ)した北条一門の残党(ざんとう)の鎌倉占領(せんりょう)でした。高時以前の北条氏の治世を先代、足利氏を後代、時行を中先代と称したので、れを中先代(なかせんだい)の乱」といいます。この反乱に()(おう)して、越中(えっちゅう)の前守護名越(なごえ)(とき)(あり)の子の時兼(ときかね)が越中・加賀・能登(のと)軍勢(ぐんぜい)を集め、京都を攻めようと南下した(さい)大聖寺(だいしょうじ)(たて)()もる敷地(しきじ)伊豆(いずの)(かみ)山岸(やまぎし)(しん)()衛門(えもん)上木平九郎(うえぎへいくろう)らが、越前からの援軍(えんぐん)を得て時兼軍を阻止(そし)し、潰滅(かいめつ)しました。これらはいずれも狩野氏の一族で、敷地(敷地町)・山岸(下福田町)・上木(上木町)を本拠とする小領主として狩野一党を形成(けいせい)していたのです。

 

建武3年(1336)、建武政権が崩壊(ほうかい)して南北朝の動乱期となり、反尊氏派の新田(にった)(よし)(さだ)が越前に入ると、義貞と結んだ(はた)(とき)(よし)が狩野一党を味方に入れました。彼らは越前の(ほそ)()()堡塁(ほうるい)(かま)えて「大聖寺ノ城」に楯籠もる尊氏方の()()(きよ)(ふみ)を攻め落とし、さらに新田軍に加わり尊氏方の越前守護斯波(しば)高経(たかつね)拠点(きょてん)である越前の府中(ふちゅう)(越前市武生(たけふ))を攻めるなど、内乱当初において、狩野一党は()(だい)()天皇方(てんのうがた)として活躍(かつやく)していました。しかし暦応(りゃくおう)元年(1338)に新田義貞が越前(ふじ)(しま)戦死(せんし)して以降は尊氏の室町(むろまち)幕府(ばくふ)に属するようになりました。

 

こうして狩野一党は、内乱中期から後期を通じて、室町幕府に属しましたが、それは加賀の守護富樫(とがし)()の支配下に属するということではなく、直接、室町将軍家から所領の安堵(あんど)保証(ほしょう))受ける将軍(しょうぐん)直参(じきさん)(ほう)公衆(こうしゅう)として、室町将軍の(ちよっ)(かつ)軍団(ぐんだん)に加わったもので、江沼郡最大の武士団としての立場を保持(ほじ)ましたが、

 

やがて一向(いっこう)一揆(いっき)(あらし)の中に埋没(まいぼつ)してしまいました。

 

 

 

 ところで、古代では公地(こうち)公民(こうみん)原則(げんそく)で、土地の私有は認められていませんでした、中央政府の力が(おとろ)えるにつれて、公地主義を維持(いじ)することが次第(しだい)(こん)(なん)となって、まず特定の貴族や寺社などの権門(けんもん)勢家(せいか)が、次いで中小の豪族などが土地の私有化を(はか)るようになりました。この傾向(けいこう)は平安時代に入ると強まり、中期以後は私有化された土地が全国的に現れました。こうした私有地を総称して荘園(しょうえん)(ごう)()といいます郷とは古代の行政区画の郷とは異なり、荘園化されずに国家の管理権がまだ維持されてい公領(こうりょう)国衙領(こくがりょう))が私領となった土地を、また、保とは郷から分出して独立の領域となった土地を()します。こうした庄や郷が江沼郡では、平安末期の大治(だいじ)2年(1127)までに、菅浪(すがなみ)(ごう)山代(やましろ)(ごう)南郷(なんごう)諸田郷(もろたごう)額田庄(ぬかたのしょう)が、安元(あんげん)2年(1176)までに(くま)(さかの)(しょう)ができました。この(いきお)いは鎌倉時代以降にさらに進み、福田庄(ふくだのしょう)(とみ)墓庄(つかのしょう)()多庄(たのしょう)が、南北朝時代に山代庄南郷、室町時代中期には(よこ)北郷(きたごう)弓浪(ゆみなみ)(ごう)(あらわ)れました。

 

福田庄・山代庄本郷・富墓庄は、京都の菅原道真(すがわらのみちざね)(まつ)北野(きたの)天満宮(てんまんぐう)の社領で、北野宮(きたのぐう)寺領(じりょう)と呼ばれましたが、加賀国には7ヶ所、江沼郡には3ヶ所も集中していました。現在、加賀市内には菅原道真を祀る菅原神社が多数(ちん)()しているのは、このことと深く関連があると思われます。その中核が福田庄で、庄内の総鎮守(そうちんじゅ)である菅生社(すごうしゃ)に天満宮の分霊(ぶんれい)勧請(かんじょう)され、菅生(すごう)天神(てんじん)と称されましたが、荘園支配の実権は地頭狩野氏に(にぎ)られてしまいました。

 

南北朝時代以後、山代庄は山代本郷・南郷・弓浪郷の3郷で構成されていましたが、これらが常に北野宮寺領であったわけではなく、公家(くげ)園家(そのけ)、守護の富樫氏、地元の武士などによって争われ、各郷ともに複雑な分割(ぶんかつ)領有(りょうゆう)の状態となって室町末期の一向(いっこう)一揆(いっき)の時代を迎えることになりました。富墓庄も同様に室町中期には宮寺領とは名目だけで、地元の武士に侵害され、わずかに菅原道真の後裔(こうえい)高辻家(たかつじけ)権益(けんえき)の一部を(たも)つだけになっていました。

 

このように、本所(ほんじょ)領家(りょうけ)と呼ばれる荘園(しょうえん)領主(りょうしゅ)の貴族や寺社は、現地に管理者を派遣(はけん)するか、地元の有力な土豪(国人(こくじん))に管理を(ゆだ)ねましたが、それに(ともな)う権益をめぐって、当然ながら地元の管理者との間に争いが起こってきました。特に15世紀末、一向宗(いっこうしゅう)が盛んになると、多くの国人が門徒化(もんとか)して百姓と一体となり、必ずしも荘園領主が要望する年貢納入に(こた)えなくなりました。さらに一向一揆が激化(げきか)する中で、各村落で(むら)殿(どの)といわれる小土豪が小領主として成長し、こうした小領主によって、荘園は名ばかりのものとなっていきました。

 

そうした中で、現地に留まって直接荘園支配に(つと)める領主も現れました。富墓庄では高辻(たかつじ)(つぐ)(なが)文明(ぶんめい)5年(1473)から3年、弓浪郷では藤原(ふじわら)北家(ほっけ)(なが)れの園基(そのもと)(とみ)(もと)(くに)父子が文明18年(1486)から2代にわたり30余年間、さらに、額田庄・八田庄(やたのしょう)では村上(むらかみ)源氏(げんじ)の流れをくむ中院通(なかのいんみち)()(みち)(たね)(みち)(ため)父子が(ぶん)()元年(1501(ころ)から代にわたって約65年間、一向(いっこう)一揆(いっき)激化(げきか)する中で、それぞれ家領(かりょう)維持(いじ)(はか)るため、京都を(はな)れて現地に下向(げこう)経営にあたっていますこのように京都の上級貴族が長期にわたって地元勢力の侵入(しんにゅう)(ふせ)いで、荘園支配努力(どりょく)なければ、荘園からの権益(けんえき)確保(かくほ)ができない状況(じょうきょう)になっていました。

 

 

鎌倉新仏教のうち、最初に江沼の地へ進出したのは、一遍(いっぺん)()(しん)が開いた時宗(じしゅう)でした。一遍は念仏(ねんぶつ)(ふだ)(くば)りながら全国各地を(めぐ)ってきました。これを遊行(ゆぎょう)といいます。しかし、一遍は北陸に足を踏み入れることなく没するが、跡を継いだ世遊行上人(しん)(きょう)正応(しょうおう)4年(1291)8月、加賀へ遊行し、これが江沼の民衆が念仏の法流(ほうりゅう)に接した最初となりました。遊行に際して結縁(けちえん)した人々を()(しゅう)と呼びますが、この時衆は、南北朝時代以降、柴山(しばやま)(ばやし)額田(ぬかだ)大聖寺(だいしょうじ)などの海岸寄り一帯に広がり、潮津(うしおづ)西光寺(さいこうじ)がその中心となりました。そのような時宗最盛期の(おう)(えい)21年(1414)3月、14世遊行上人(たい)(くう)が潮津で(べつ)()(ねん)(ぶつ)興行(こうぎょう)した時、源平争乱の篠原の戦いで討ち死にした斎藤実盛の(れい)があらわれ、太空はこの怨霊(おんりょう)(ねんご)ろに供養(くよう)鎮魂(ちんこん)したといいます。この話をもと()()()謡曲(ようきょく)「実盛」を(あらわ)しました。以降、歴代の遊行上人は加賀に至ると、必ず(さね)(もり)(づか)(もう)でて回向(えこう)するのが重要な行事となり、今日までこの例は堅く守られています。しかし、この地の時衆は、一向(いっこう)(しゅう)と呼ばれた浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)(さか)んになる戦国時代に入ると、ほとんど姿を消しました。

 

時宗についで念仏の法統をもたらしたのは、親鸞(しんらん)を開祖と仰ぐ浄土真宗でしたが、最初に真宗の念仏を伝えたのは、本願寺の系列ではなく、親鸞に教化された関東の門徒たちが直弟子(じきでし)真仏(しんぶつ)を中心に結集した高田派(たかだは)でした。この法系を引く三河(みかわ)門徒団が、尾張(おわり)美濃(みの)を経て越前大野郡(おおのぐん)に進出しました。その中心人物が越前大野に専修寺(せんしゅうじ)を開いた(にょ)(どう)で、この越前に展開した門徒団を総称して(さん)門徒派(もんとは)といい、室町初期までに越前で強い勢力をもつようになり、やがて江沼郡にも教線をのばし、その分派が江沼に移って、後の月津(つきづ)興宗寺(こうしゅうじ)、小松の本覚寺(ほんがくじ)、山代の専光寺(せんこうじ)となりますが、これらの諸寺はいずれも本願寺(ほんがんじ)8世(れん)(にょ)の布教後に転派し、本願寺派となっていきました。

 

このように優勢な三門徒・高田派系に囲まれて、荻生(おぎゅう)(がん)成寺(じょうじ)河崎専称寺(かわさきせんしょうじ)打越(うちこし)勝光寺(しょうこうじ)などの数少ない本願寺派の寺院は孤立した存在となっていました。このうち荻生願成寺は、現在、大聖寺願成寺が所蔵する『親鸞(しんらん)絵伝(えでん)』の裏書(うらがき)(おう)(えい)26年(1419)とあり、全国的にみて最古のものであることから、15世紀初頭には本願寺派の寺院として成立していたと思われますが、これらが本願寺系として勢力拡大に向かうのは、本願寺7世存如(ぞんにょ)(ほう)(とく)元年(1449)に河崎専称寺へ『親鸞絵伝』を下し、蓮如を伴って越前から加賀に入り、布教(ふきょう)活動を開始してからのことで、それ以降、高田派と本願寺派は加賀・越前において激烈(げきれつ)抗争(こうそう)に入っていくことになります。

 

文明(ぶんめい)3年(14717月、本願寺8世蓮如が加賀・越前の国境(くにざかい)吉崎(よしざき)道場(どうじょう)(ひら)きました。当時、蓮如は比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)(しゅう)()()われ、近江(おうみ)(滋賀県)を転々(てんてん)としていましたが、ついには北陸にまで避難(ひなん)するかたちで、吉崎に拠点(きょてん)(もう)、三門徒派・高田派を秘事(ひじ)法門(ほうもん)批判(ひはん)して退(しりぞ)け、その派の諸寺や門徒の本願寺派への吸収(きゅうしゅう)(はか)るとともに、盛んに御文(おふみ)を発して農民層を中心にして精力(せいりょく)(てき)に布教しました。その結果、吉崎(よしざき)御坊(ごぼう)にはまたたく間に多くの参詣者(さんけいしゃ)がつめかけるようになり、吉崎は仏教都市になりました。

 

こうして、北陸一円(いちえん)では蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)もとで土真宗が急速(きゅうそく)広まっていきましたが、その背景(はいけい)して土真宗の本尊(ほんぞん)が白山大汝(おおなんじが)(みね)本地仏(ほんちぶつ)ある阿弥(あみ)()如来(にょらい)であったことが考えられます。白山信仰や土真宗は、近世以降も引き()れ、現在も市の神社の5割弱で(はく)山神(さんしん)(まつ)り、また、寺院では土真宗が8割を上回るなど、白山信仰と土真宗は、当地の信仰心の(かく)となっています。

 

その頃、加賀の守護(しゅご)(しき)をめぐって富樫(とがし)(まさ)(ちか)と弟の(こう)千代(ちよ)が争っていましたが、蓮如が吉崎に進出した頃は、幸千代が優勢で、政親は文明5年(1473)に越前に逃げる状況でした。幸千代側は土豪層(どごうそう)の武士と高田派が中心で、本願寺派が吉崎を拠点にして加賀に勢力を伸ばす状勢(じょうせい)打破(だは)しょうとしていました。これに着目(ちゃくもく)した政親が本願寺門徒と手を結び、文明6年に加賀に入り、幸千代の能美郡(のみぐん)蓮台寺(れんだいじ)(じょう)(おと)して守護職奪還(だっかん)に成功しました。ところが、本願寺門徒の協力で勝利を得たにもかかわらず、守護富樫政親は門徒を弾圧(だんあつ)する方針をとるようになると、文明7年(1475)3月、門徒は蜂起(ほうき)し政親と対決しましたが、敗北(はいぼく)して越中(えっちゅう)()()らされ、吉崎も反政親派の拠点として政親の圧力をうけることになり、結局、蓮如は、同年8月吉崎を退去(たいきょ)しました。

 

しかし、本願寺派の進出は、守護や土豪などの領主層の支配から離れようとしつつある農民層を門徒化していった結果、一向衆として農民層の団結が強まり、村落(そんらく)自治(じち)を成立させました。こうした農村内部の変化によって、国人(こくじん)()(さむらい)と呼ばれる(むら)殿層(どのそう)の中小在地(ざいち)土豪たちは、門徒化した(そう)百姓(ひゃくしょう)と協調するために自身も門徒化し、惣百姓の要求を組織化することによって勢力の維持(いじ)(はか)るようになりました。その結果、在地支配する一向(いっこう)(しゅう)一向衆を打倒しょうとする守護勢力との抗争(こうそう)が深まっていき、ついに長享(ちょうきょう)2年(1288)春、この状況を危機(きき)とみた富樫政親が、将軍に従って出陣(しゅつじん)していた近江(おうみ)から急いで帰国し、居城(きょじょう)高尾(たかお)(じょう)防御(ぼうぎょ)(かた)めると、一向一揆は加賀の各地で蜂起し、高尾城を包囲(ほうい)して落城(らくじょう)させ、6月に政親を自害(じがい)させました。この時、越前守護(あさ)(くら)()富樫への援軍も、福田(ふくだ)敷地(しきぢ)などに(じん)(かま)えていた一揆軍に破られ、空しく引き上げました。この文明・長享の一向(いっこう)一揆(いっき)の勝利によって、約1世紀の間、加賀に「百姓の()ちたる国」が成立(せいりつ)しました。

 

しかし、それ以降も加越(かえつ)国境では、一揆軍と朝倉軍の戦闘(せんとう)は続き、(えい)(しょう)元年(1504)頃から畿内(きない)を中心に北陸・東海(とうかい)地方(ちほう)の一向一揆が一斉に蜂起して(せん)(ごく)大名(だいみょう)対決(たいけつ)する事態(じたい)となりましたこの動きに呼応(こおう)して、永正3年(1506)7月、加賀一向一揆も大挙(たいきょ)して越前へ攻めこみました。この永正一揆は当初(とうしょ)、一揆方が優勢(ゆうせい)で、たちまち九頭(くず)竜川(りゅうがわ)以北(いほく)占領(せんりょう)しましたが、九頭(くず)竜川(りゅうか)(はん)(たたか)いで朝倉軍に惨敗(ざんぱい)し、3分の2の兵力を失って加賀へ()げ帰りました。この時、江沼の一揆軍を率いたのは、黒瀬(くろせ)本拠(ほんきょ)とする黒瀬(くろせ)(かく)(どう)らの大土豪でした。

 

この大敗北によって、越前では本願寺勢力が一掃されました。吉崎道場は完全に破壊(はかい)され、有力寺院である藤島(ふじしま)(ちょう)勝寺(しょうじ)和田(わだ)本覚寺(ほんがくじ)なども破却(はきゃく)され、加賀に亡命(ぼうめい)せざるを得ませんでした。本覚寺は能美郡の和田山(わだやま)に移り、超勝寺は江沼郡東北部に(きょ)(かま)えました。現在、(はやし)(ふた)()(なし)(との)()に超勝寺と伝えられる遺跡があります。

 

ところで、蓮如が吉崎に進出する以前に、河北郡(かほくぐん)二俣(ふたまた)本泉寺(ほんせんじ)を蓮如の次男蓮乗(れんじょう)()ぎ、3男(れん)(こう)能美郡波(のみぐんは)佐谷(さだに)松岡寺(しょうこうじ)(ひら)いていました。そして、江沼郡の山田(やまだ)に山田坊が開創(かいそう)され、そこに文明18年(1486)頃に蓮如の4男(れん)(せい)が江沼郡の門徒から取り立てられて(こう)教寺(きょうじ)(ごう)することになりました。この蓮如の子が住持する寺を「加州三ヶ寺」、蓮乗・蓮綱・蓮誓の3兄弟を「三山の(だい)坊主(ぼうず)」といいます。蓮如の後を継いだ本願寺9世実如(じつにょ)は5男で、この三ヶ寺は加賀で本願寺と最も血縁(けつえん)()一門(いちもん)でしたから、長享一揆以降、加賀の一向一揆はこの三ヶ寺によって統制(とうせい)される、いわゆる「加州三ヶ寺体制」がしかれました。

 

しかし、実如の跡を継いだ本願寺10証如(しょうにょ)の時代になると、次第に門徒百姓は在地(ざいち)の大寺院の支配から離れて直接本願寺に結びつく、直参(じきさん)門徒(もんと)になる志望を強めるようになり、このような門徒の動向を察した本願寺は、越前帰還(きかん)を望み三ヶ寺と対抗(たいこう)関係(かんけい)にあった超勝寺との連携(れんけい)を深め、反三ヶ寺体制の姿勢を示すようになりました。これに対し(きょう)(ろく)4年(1531)、三ヶ寺派は実力行動で超勝寺を討つことを決定しましたが、超勝寺一党が攻撃に出て波佐谷の松岡寺を滅ぼし、次いで二俣から移っていた若松(わかまつ)の本泉寺を焼亡(しょうぼう)させました。さらに超勝寺一党は江沼郡に攻め込みました。光教寺では父蓮誓の跡を嗣いだ(けん)(せい)を中心に、黒瀬覚道・福田ノ(たけ)太夫(たゆう)柴山(しばやま)一針(ひとつはり)らの有力国人らが越前朝倉の援軍を得て戦いましたが(やぶ)れて退却(たいきゃく)、越前に逃れました。この事件を享禄の(さく)(らん)といい、大坊主と有力国人が主導権(しゅどうけん)を持つ「加州三ヶ寺体制」は消滅(しょうめつ)し、ここに名実ともに本願寺直参衆を中心とした本願寺王国が出現(しゅつげん)したのです。

 

こうした門徒たちにとって、真宗布教の基本であり、発展の原動力となったのが、集まって念仏し法談(ほうだん)する(こう)でした。蓮如の吉崎進出以降、各村々に多くの構が生まれ、それらを総括(そうかつ)する江沼郡全体の講として、「六日講(むいかこう)」ができました。この講は門徒の信仰を(かた)めるという基礎的役割を果たすだけでなく、法主の教化に対する報恩(ほうおん)(こころざし)、すなわち(こん)()(寺に納める銭や米)を集める場でもあり、「六日講」の懇志は本願寺に納められ、そこを支える経済的基盤の機能も(あわ)せもったものでした。

 

また、一向一揆には(くみ)と呼ばれる軍事組織がありました。組を構成するのは、同一地域の国人・土豪や有力農民などで、代表は組の寄合(よりあい)(えら)び、それを旗本(はたもと)といいます。本願寺はこの旗本を通じて統制し、その機能は組内の課税(かぜい)裁判(さいばん)(ふく)行政権(ぎょうせいけん)、本願寺の警備などでした。江沼郡にはどの程度の組が存在(そんざい)したのかは()かっていませんが、大聖寺川下流域を区域(くいき)とする「菅生組(すごうくみ)」がありました。

 

このように一向一揆の支配体系は、形式的には本願寺を頂点とし組・講を基礎とする法王国ですが、構造的には組・講を構成する主要素の有力百姓、いわゆる中世の百姓に基礎をおくものでした。

 

本願寺では実如の晩年(ばんねん)に越前の朝倉氏との間で和睦(わぼく)が成立していましたが、共に戦国大名への道を邁進していた両者の共存(きょうぞん)(ゆる)されなく、加越国境の平和も永くは続きませんでした。

 

証如の跡に11顕如(けんにょ)が本願寺法主(ほっす)となると、(こう)()元年(1555)、越前の朝倉(そう)(てき)が一向一揆を潰滅(かいめつ)させようと、加賀へ大挙して侵入(しんにゅう)し、ここに再び、以後10余年にわたる加越(かえつ)抗争(こうそう)(はじ)まりました。南郷(なんごう)(じょう)(くろ)()()(もんの)(じょう)藤丸(ふじまる)(しん)(すけ)(さく)()千足(せんぞく)(じょう)大坂(おおさか)潟山津(がたやまづ)大助(だいすけ)(いぶり)(ばし)帯刀(たてわき)らが(ひき)いる江沼郡の一揆勢は総力をあげて大聖寺―南郷の線で朝倉勢の進撃(しんげき)阻止(そし)しょうとしました。しかし、防ぎきれずに()()(じょう)や南郷城を()てて退却した一揆勢は、加賀4郡の総力を結集(けっしゅう)して反撃(はんげき)に出ました。ところが再度敗北し、江沼郡の一揆の運命(うんめい)風前(ふうぜん)(ともしび)となりましたが、敷地(しきぢ)(きん)()(じょう)本陣(ほんじん)(かま)えていた総大将朝倉宗滴が発病(はつびょう)し、朝倉勢が越前に引き上げたので(こと)なきを得ました。その後も一向一揆と朝倉氏の抗争は続ましたが、永禄10年(1567)、越前一乗(いちじょう)(だに)朝倉館(あさくらやかた)に身を寄せていた足利(あしかが)(よし)(あき)仲介(ちゅうかい)でようやく和睦が成立し、その結果、江沼郡の一揆方の拠点であった柏野(かしわの)松山(まつやま)両城と、朝倉氏の管理下に置かれていた黒谷(くろたに)()()(日谷)・大聖寺の3城が破却(はきゃく)され、北陸道の封鎖(ふうさ)()かれることになりました。

 

天正3年(1575長篠(ながしの)の合戦で武田軍(たけだぐん)(やぶ)った織田(おだ)信長(のぶなが)は、北陸を平定(へいてい)するために越前(えちぜん)侵入(しんにゅう)ました。羽柴(はしば)(ひで)(よし)丹羽(にわ)長秀(ながひで)柴田(しばた)勝家(かついえ)らの織田軍の先鋒(せんぽう)は、ついには加賀へ()ち入り、大聖寺、敷地(しきち)、山中の各城を攻め落とし、江沼郡を占領(せんりょう)しました。その後、能美(のみ)一揆勢(いっきぜい)(やぶ)って手取(てどり)(がわ)まで進出しました。ここに、江沼・能美の両郡は、百年近くに(およ)んだ一向(いっこう)一揆(いっき)と本願寺配下(はいか)から(はな)され、新たに織田信長の占領下(せんりょうか)に入ることとなりました。

 

このあと、信長は北陸(ほくりく)総司令官(そうしれいかん)として柴田勝家を越前(えちぜん)北庄(きたしょう)(現在の福井市)に置き、江沼地域の拠点であった大聖寺(だいしょうじ)(じよう)には、天正4年に、(べっ)()右近(うこん)(ひろ)(まさ)が、天正8年(1580)には柴田勝家の家来、拝郷五(はいごうご)()衛門家(えもんいえ)(よし)城主(じょうしゅ)となって当地を治めました。